OB能楽師小野栄二様より、会員便りを頂きましたので掲載致します。思えば師は50年以上前、当時一年先輩であった小生(吉川)が同じ経営学部であることを理由にはんば強引に勧誘した覚えが御座います。(入部交換条件で教科書を進呈致しましたが)只今は上記写真の雄姿です!以下寄稿された文章を掲載致します。
能に想う
能の一曲が終わるとき、留め拍子を踏み、見所(けんしょ:客席)の拍手を背中に受けながら橋掛かりを歩み、幕の奥にある後見の待つ鏡の間に戻ります。面(おもて)をはずして頂き、後見、ワキ方、囃子方、狂言方、地頭をはじめとする地謡の方々にお礼の御挨拶をします。先程までの非日常の幽玄の世界から現実の世界に引き戻される瞬間です。やり遂げたという充実感、もっと稽古を積めば更に良くできたかもしれない。いろいろの気持ちが絡み合った複雑な心境です。でも、そんな気持ちに浸っている間もなく、能装束から紋付袴に着替え、装束や舞台で使った作り物の片付け、次に始まる能の裏方の仕事と続きます。
私は能のシテ方観世流の能楽師です。栃木県庁を退職して12年になろうとしていますが、公務員時代には想像のできない社会にいます。現在、観世流職分家当主坂井音重師が主宰する坂井同門会の同人として東京の舞台を主に活動しています。年に1、2度、能でのお役(シテ、ツレ)を頂いて出演する機会を得ています。地謡としての出演は地方公演も含めると年十数回といったところでしょうか。令和2年には能「忠度」を舞いました私が能の知ったのは中学校の国語の教科書で能「隅田川」を学んだことが始まりでした。また、18歳のとき初めて観た能が同じく「隅田川」です。渡し守が語る子の最後の姿に驚き悲しむ母親に涙したことや塚から子供の幽霊が出てきてびっくりしたことが今も鮮明に心に刻み込まれています。この感動が能の世界に入るきっかけとなりました能の感動を具現しようと明大能研の吉川先輩にお誘い頂き趣味として始めた謡曲ですが、50歳の時、現在の師匠と出会い、55歳でプロの誘いを受けました。厳しい世界と承知していましたから、やっていけるかどうか2年ほど悩んでいましたところ、再度の誘いがありました。このチャンスを逃すと能楽師にはなれないと県庁をやめてプロの世界に飛び込む決心をしました。しかし県庁生活も残りわずかであるからとの師匠の計らいで定年までの勤めを許されました。それからは、東京に出てこの社会の下働きを務めました。古いしきたりの世界ですから勝手がわかりません。年若い先輩の能楽師にあれこれ教えを請い、指導を受けました。趣味としてやっていたレベルとお金を頂くレベルの違いを痛感しました。当初は能を演じるのに必要な膨大な量の約束事・知識等の習得や技術向上のため食事、寝る以外は舞台のための稽古が続きました。最近になってやっと少し余裕ができたかなと実感しています。
このように現在の私はアクター(演者)の能楽師として活動していますが、ティーチングプロとしての活動も行っています。栃木県では宇都宮市他で謡・仕舞の教室を開催し、その指導をしています。また、埼玉県でカルチャーの講師も務めています。習いにいらっしゃる方々は私より年上の方がほとんどですが、何れの方も熱心で私の方が元気を頂いているようなものです。また、請われれば中学校、高等学校で総合学習の時間に生徒さんたちに能の手ほどきもしています。子供たちの新鮮な反応がうれしいです。
これからは一曲でも多く演じ、生涯現役を続け、何時の日かは東京ではなく地元で能の公演をして、子供たちにかつて私が受けた感動と同じ感動を与えたいというささやかな夢があります。
小野 栄二
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